Back to Index
ここまで、音楽配信を巡る、各種団体、レコード会社などの動きを見てきたが、著作権利者である当のアーティストは、この問題をどう考えているのだろうか。
「自分たちの作品を守る為には、どうしたらいいですか? みなさんの意見を聴かせてください」と問いかけるウェブ・ページがある。坂本龍一が自らプロデュースする『A nous, la Liberte!(自由を我らに)』である。「デジタル・ネットワークで配信するすべての人のために」とサブタイトルのついたこのページでは、ネットワークを通じた作品の流通に関する著作権関係のルール作りに関してのアンケートを実施した。それは、デジタル・テクノロジーの進歩が、すべての個人をクリエーターにする可能性があるという前提に立って、新しい著作権を考えるためのガイドラインをクリエーターの側から作ろうとする積極的な試みである。
『A nous, la Liberte!』を始めて見えてきたこと、そして、いま現在、議論しなければならないさまざまな問題点について、坂本龍一にe-mailで答えてもらった。
INTERVIEW 川崎和哉+原雅明
既得権者たちが、
ネットも我々の領土だと言わんばかりに、
エゴをむきだしにしているように見える
――ウェブ・ページ『A nous, la Liberte!』を始めたのはなぜですか? その背景にはどういう問題意識があったのでしょう。
ネットをめぐって著作権の整備が急務だとは、関わるものみんなが思っているでしょうが、実質的には既得権者たちが、ネットも我々の領土だと言わんばかりに、それぞれの立場での経済的なエゴをむきだしにしているように見えます。
ネット上で著作権はどう考えられるべきか? それさえ統一した意見はないし、議論の場もない。もちろん企業内や政府内での議論はたくさんあるでしょう。しかし、ネットでのコンテンツ(音楽)配信で一番恩恵をうける(あるいは、うけるべき)のは、そのコンテンツの送り手と受け手であるユーザーであるのに、それらの議論からは一切しめだされているように見えます。ですから微力ながら自分のサイトが、それらのコンテンツ制作者とユーザーの議論の場になればいいと思ったわけです。
ぼく自身も結論めいたものはあえて持たずにゼロから考えたかったし、今でも考えています。ネット上において果たして「copyright」(著作権)という言葉を使用すること自体妥当か?ということや、ネット上において果たして著作権についての統一したルールをもうけることは必要か?可能か?ということなど、根本から考えています。
しかし、そうしている間にも各国政府の法整備、仲介業者のルール作りが先行してしまっていて、領土取りに入っているような気がして多少焦っているし、何より作り手であるアーティストたちがあまり関心をもっているように見えないのがとても不思議です。このことに関心があるアーティストとは超党派で何らかの組織作りをしてもいいと思っています。
ネット上に、著作権保護のサービス機関ができないか。
その機関は特定の国の法に従わない。
そして、独占化を抑止するために、
複数存在する必要がある
――そこでたくさんの人々の意見を聞くことで坂本さん自身が得られたことはどういうことですか? それによってご自身の著作権をめぐる考え方に変化はありましたか?
まず将来、いつの時点か分かりませんが、世界中がネットで結ばれる社会がくることを想定すると、現在コンピュータを使用していてしかもネットを利用している人の数は圧倒的に少なく、しかも『Liberte』をヒットし、アンケートに答えようという人は恐ろしく少なく、サンプリングとしては非常に不備だと思っています。しかし数は少ないけれどそれらの意見はとても貴重だと思うし、一部の「有識者」といわれる方々の意見もいただいて、とても参考になってます。
ぼくの感想は、ネットにおいては個人単位の認証にもとづいて情報の交換が行われるはずなのに、多くの人がまだ現在の物質世界での「著作権」のイメージにとらわれているということです。また、ますます考えを強くさせられたのは、ネットにおいてはgiveawayからその反対の極まで、全ては個人の選択に任されるべきだということです。著作権を侵害されようとgiveawayしたい人はする、しかし自らの著作権を侵害されたくない人は、完全に守られるべきだ、というのが今のぼくの考えです。
守るというときに、それは個人でやるのも可能かもしれないし、個人でやるのは荷が重いという人に対して、ネット上に著作権保護のサービス機関ができてもいいと思います。当然ネット上ですから、このサービス機関は特定の国の政府の法に従うわけではない。また、このサービス機関の独占化を抑止して競争原理を働かせるために、それは複数存在する必要がある。そこでは異なるサービスと料金体系がある、ユーザーは選び契約する。そのサービスがどこまで含むかは、それぞれ異なるだろう。著作権の保護だけという場合もあるだろうし、保護と管理をする会社もあるだろうし、保護と管理と追跡調査プラス「取り締まり」までやる会社も出てくるだろう。
――「ネットで公開されているものはすべてコピー・フリーと考えるべき」といった極端な意見に代表されるように、デジタル・メディアにおける著作権はできるだけコピーがしやすいように、できるだけゆるやかにすべきと考える人も少なくないと思うのですが (『A nous, la Liberte!』へのコメントの中にもいくつか見受けられました)、そういう考え方についてはどう思われますか。
そう考える人、そう考えない人、あるいは一人の人間の中でも時と状況によって、変わるでしょう。それら全部を満足させるべきだと思います。ぼくにしても、この曲は勝手に持って行ってもらってどんどん使ってもらおう、という場合もあれば、この曲は勝手に改変してもらっては嫌だ、という場合もある。どんな場合でも危険なくデータを交換できるべきでしょう。giveawayの場合は著作権を放棄、または侵害されることを前提にしているんだから、問題ないでしょう。問題は著作権を侵害されたくない場合ですね。
音楽が盗まれ、対価が払われないなら、
誰も音楽を作らなくなる。
誰がそれを望んでいるのでしょう?
――ヒップホップ・ミュージックに代表されるようなブレイクビーツ、サンプリングを多用する音楽について、いわゆる元ネタの作者にはすべて許諾を求めるべきとお考えですか? それとも、どの程度のサンプリング(時間、編集の度合)であるかによって許諾が必要ない場合もあるとお考えですか?
ぼくもねぇ、自分が使う場合は許諾も関係なく何でも使いたいし、一部のDJのように全部他人のレコードだけで、すぐれた音楽を作っているのを聴くと、許諾なんていいじゃないか、と思いたくなりますが、自分の音楽が自分の意図と関係なく使われて、かつ対価も払われないとなると、音楽で食っている人間としては死活問題ですから、困ります。
日本ではきちんとしたコンセンサスがないようですが、少なくともアメリカでは、全て許諾が必要ということでこの3〜5年ぐらいコンセンサスができています。許諾がとれないで、アルバムが出せないというケースもあります。
許諾が必要がどうかの基準は、元ネタが判読可能かどうか(recognizable)ということです。
いくら他人のネタを使っていても、元の音楽的コンテクストが判読できないぐらい改変されていればO.K.だということになります。
これはネット上で電子透かしなどをつかってトレースした場合、かなり改変した場合でもトレース可能ですから、もっと厳しくなることが予想されます。
もっともトレースしたからといって、それが即取り締まることにはつながりませんが。
少なくとも自分の作品がどこでどういうふうに使われているか分かるのは必要だと思います。その上で他人が勝手に使うのを許諾するかどうか決めればいいわけです。
他人の音楽を勝手に使っていいんだ、という議論には反対します。これはネット上も物質世界にも関係なく、ぼくは反対です。ぼくの生活が成り立たなくなるからです。それはrip off(盗み)だからです。
――サンプリングの規制強化よって、アンダーグラウンドでは、海賊ラジオやミックステープなどのメディアに流れる動きがいっそう強まっているようです。規制の強化は、音楽の創造性を阻むとお考えですか?
一部の優れたDJは他人の作品を使っても個性ある音楽を作ります。しかし優れているからO.K.、優れていないから許さない、というのも判断が不可能に近いし、フェアーじゃない。とすれば何らかのルールは必要です。
上で言ったように、他人のものを勝手に使うのは盗みですから、何らかの規制は必要です。確かにそれによって一時的に音楽の創造性を阻む事態も生じるかもしれませんが、音楽を作ってもそれが盗まれ対価が払われない事態が続いたら、誰も音楽を作らないし、少なくともネット上にはupしないでしょう。そうなればもっと深刻に音楽の創造を阻む事態になりますし、ネットはゴミ溜めになってしまうでしょう。誰がそれを望んでいるのでしょう?
――以前、日本の『ワイアード』誌上での桝山寛さんによる坂本さんへのインタヴュー記事で、ネットで創造行為を行っている人のユニオン的組織を作るという構想があるとおっしゃってます。これは、デジタル・メディアにおける著作物使用許諾/使用料徴収などの実務などもおこなう組織――つまりJASRACに代わるような組織――と考えてよいでしょうか?
米国のASCAPのように、創作者の側から著作権の保護・管理団体ができてもいいという考えです。しかし実務となると、ぼくの力ではできません。ネット上のことなので、物質世界に比べてはるかに楽でしょうけど。
ネットによる音楽配信が普及すれば、
理論的には現在のほぼ10分の1の値段で、
同じクオリティの音楽を享受できる
――現在、とりわけ日本で、インターネット上で音楽作品を提供するにあたって、もっとも大きな障害となっているのはどういうことだとお考えですか?
これはぼくも言ってなかったし、誰も言ってないんですが、一番大きな障害はPCをベースとしたプラットフォームでは現在のCDを凌駕するようなマーケットは形成できない、ということです。PCが爆発的に普及するなら別ですが、その兆候は見られません。PCに変わる何らかのプラットフォームが家庭・個人に、現在のCDプレイヤーに匹敵するくらい普及しなければ、ネットでの音楽配信は普及しません。
これは大きな落とし穴です。
ほとんどのアーティストが消極的なのも、この点を考えると彼らは本能的にそれを理解しているのかと想像します。
電話やTVがほぼ100%近く普及していることを考えると、WebTVのようなTVからシームレスでネットにアクセスできるディヴァイスがプラットフォームになっていくのかな、と想像します。
もうひとつ、現在のPCは音楽を聴くディヴァイスとしては最悪だということも忘れてはいけません。HDの音、ファンの音、スピーカーの音質、内部の配線など、多くの問題があります。この点でもWebTVのようなディヴァイスの方がゴールに近いのかな、と思えます。
――日本では大手レコード会社が、各社横並びで、インターネット流通に慎重な態度を見せています。これは、レコード会社各社が所属する、日本音楽団体協議会(音団協)、日本音楽著作権協会(JASRAC)、日本レコード協会などで、「パッケージビジネスの保護」を理由とした消極的な意見が支配的なためだと言われています。こういった問題は、アーティスト不在のまま協議されているようですが、何か意見がありましたら、ぜひお聞かせ下さい。
これは明白です。ネットによる音楽配信が普及すればレコード会社、工場、運送業者、レコード店など、作者とリスナーの間に介在する全ての中間搾取者がいらなくなるからです。理論的にはリスナーは現在のほぼ10分の1の値段で、同じクオリティの音楽を享受できるでしょう。
上記の質問にあがっていた既得権者に加えてレコード店の圧力も考慮すべきだと思います。しかし、ネットが普及した世界において、これらのパッケージに依存した既得権者も生き残れるビジネスの可能性は様々あると思われます。そこを模索した者のみが生き残れると思います。
――アメリカにASCAP、BMIなど複数の著作権使用管理団体が存在するように、日本でも著作権使用管理は民営化されるべきだと思われますか?
仲介業務法ではJASRAC一社がやらなければいけないとは言ってません。しかしJASRAC一社支配が続いてます。これは不健康ですね。ぼくは競争原理があってこそ健康な市場が形成されると思います。ユーザーにとっても、唯一のサービスしか選べないよりも、状況に合わせて様々なメニューから自分に合ったサービスを選択した方がいいに決まっています。
ユーザーのニーズを読み取れない会社は脱落していくのは現在のわれわれの社会です。なぜJASRACが特権を維持できるのか、理解できません。
ネット上での、
作者性のない音楽のあり方にも興味がある。
ある種「部族」的な音楽が成立するかもしれない。
――ご存知のように、いわゆるコンピュータ・プログラムの世界では古くから伝統的にフリーウェアというものが使われて来ました。フリーウェアは自由に複製・ 再配布(しばしば改変も)できるというメリットを持っていて、それが普及の原因になっているのは周知の通りです。同様のことはプログラム以外の電子的著作物であり得ると思いますか?
Netscapeや現在のMSや伝統的なフリーウェアのやり方で、どうやって収入を得るかというビジネスモデルは興味深い。音楽の「お試し版」ですね。
ぼくのように音楽による収入で生活している人間には難しいでしょうね。デヴィッド・ボウイのように、音楽家自身に株かなんかで「投資」するような仕組を作れば、音楽はただでばらまく、名前を売る、「投資」価値を上げる、というビジネスモデルはありえますね。
まさにNetscapeやYahooのやり方です。が、うまくいくとは思えない。第一そんな不安定な収入によって生活していたら、ぼくは免疫不全になってしまうでしょう。しかし、不安定ということだったら同じようなものかな? だったらやってみてもいいかな?
この次元とは別に、ネット上での作者性のない音楽のあり方というものにも興味があります。ある種「部族」的な音楽というものが成立するかもしれない。「部族」的というのは、特定の個人の作者のいない音楽のあり方を想定しています。これはビジネスモデルとは結びつきませんが。
――それは、どこかの誰かが思いついたメロディや詞、リズム、演奏のスタイルなどがある人々の間で共有され、改変/洗練されて行くことで完成される音楽、というようなものでしょうか?
あなたが言っているのは「連歌」みたいなものですね。確か「連画」のサイトもありますよね。そういうものも作ろうとしていたこともありました。
まぁ、あまり「作品」として実りのあるものはできないことは分かっているので、いつかアイディアは消えてしまいましたが。というのも、コラボレーションの難しさをいつも通常の作業の過程で経験しているからのなのですが。デヴィッド・シルヴィアンやビル・ラズウェルのように、お互いにほんとうによく分かり合ってりるつもりの人たちとさえ、現場ではお互いのエゴがぶつかり合ってうまくいかないのです。ましてや、という気持ちになります。しかしもしかすると、お互い見知らぬ同士の方がうまくいくのかもしれませんね。そういう可能性もすてきれません。ただ、聴いて実りのある作品ができる可能性は低いと思います。
こういう個人に立脚したコラボレーションは、難しいのでしょう。そもそも、ぼくたちがコンピュータを音楽に使いだしたのも、他人に介入されることなく、個人のイマジネーションを完璧に表現することが目的だったのですから。
しかし、そうしながらもぼく自身は、他者性を排除することは脳とコンピュータの閉回路に入ることであり、創造の袋小路に入り発展が止まることは分かっていましたから、矛盾はかかえながらも常に他者と出会う場を求めていました。
さてネットですが、ネットは個人に立脚したメディアムでありながら、ある意味で膨大なアノニマスな群ですね。そこで、個々の自我(作家性)に立脚するのではないコラボレーションのあり方が可能かもしれないと、想像しているのです。そこですぐ思い当たるのが、全くリーダーや作家の存在しない音楽が地球にはあるということです。具体的にぼくに思い当たるのはピグミーの合唱です。ネット上で、ある規則を共有することで、誰か個人の作品ではない、コラボレーションによる音楽が可能ではないかと夢想しているのです。
――そういった種類の音楽に坂本さんが惹かれるのはどうしてですか?
フーコーの指摘を待つまでもなく、ヨーロッパにさえ無名性の音楽は存在していたし、地球上にはまだ少し存在している。それらが消えてなくなりつつある現在、突如として最も先進的なメディアムであるネット上に、古代的、あるいは中世的な無名性音楽が出現する、という夢想はとても刺激的でしょう? 実際に作家性のある音楽だけが音楽だとは思っていませんし。
問題があまりにも複雑多岐なので、
ネット上での音楽配信は実現しないのではないか、
とも思うようになった。
しかし、絶望はしていない
――デジタル・メディアにおける著作権の具体的な保護が行われる現場で、そのための実効力としてはどのような手段が有効と思われますか?(e.g. 法的規制、なんらかのコピー・プロテクション)あるいは必要なのはモラルの確立であり、強制力は不要とお考えですか?
ネット上においてある特定の国による法規制が無効なことは当たりまえです。WIPOの取り決めがあるとはいっても、世界には著作権フリー地帯が必ず存在します。ですからぼくは法規制は無駄だと思います。保護の為には技術的手段に頼ることになると思います。
電子透かしによるトレース、コピープロテクション、またヴァイオレートした(規則を破った)サイトへのアクセスを封じ込める、などを多様に組み込むことができると思います。
もちろんこれらを破ろうとする者は必ず出てくることは確信しています。それはこの物質世界でも同様です。犯罪はなくならない。そのような技術的手段と共に、教育によってモラルの浸透も必要だと思います。
――テッド・ネルソンの言う「トランスコピーライト」についてはどう思いますか?
テッド・ネルソンのザナドゥにも影響されてます。極端に言うならば、ネット上の情報はある一部を除いて全て有料でもいいのではないかとも思います。そしてそれは、アクセスする人間が全てe-cashをもっているならば可能なのではないか。もちろん、有料とは言っても、その情報の作者の意志により、「ただ」という可能性もなくてはいけませんが。
解決しなくてはいけない問題があまりにも複雑多岐にわたり、最近ではネット上での音楽配信は実現しないのではないか、とも思うようになりました。少なくとも現在のインターネットでは無理なのかとも思える現状です。第2インターネットの話もありますが、これは商用ではないでしょうから、これも無理。では閉じられたネットでの配信でしょうか?確かに安全性は高まるし、責任の所在も明確になるでしょうが、「閉じられた」というところで、どうも触手が動かない。結局、作者にもリスナーにもメリットがあるネットでのコンテンツ配信とは「夢」に終わるのでしょうか?
もちろんぼくは絶望している訳ではなく、これからもいろいろな試みはしていくつもりですが。
――『A nous, la Liberte!』は今後、どういう展開をしていくご予定ですか?